スクラプチャーに限らず、作品と呼ばれているものは、それぞれのディメンションにおいての空間内の何かとの対比によって、はじめて、その存在意味が現れる。このことはスクラプチャーの場合、特に三次元という現実の空間に存在する物としての前提において作品としての表現を成立させる、というカラクリである。抽象表現としてのスクラプチャーの成り立ちからは、抽象絵画の運動と同じようなスクラプチャーを成立させている造形要素の追求によって、作者自身と作品との関係の距離を縮めて、その作家自身に同化させることによって、その作家の存在をアピールするための試みが最も大きな眼目であった、と考えられる。しかし、スクラプチャーはその性質上、絵画とは違い、私たちが存在している空間そのものを前提にしたフィールドに存在する物であるために、それを存在させている空間を、絵画空間のような無重力の自由さを獲得することはできない。このことは、スクラプチャーを存在させる空間を自由に、そのスクラプチャーのために変えるということができない、ということを意味している。これを前提にして抽象表現としてのスクラプチャーの存在意味を考えた場合、その答えは大変難しい。第一に抽象表現としてのスクラプチャーを計画したときに、そのスクラプチャーが存在する空間を出発点とするのか、作品そのものに出発点を求めるのかによって、その意味と性格が全く異なる可能性がある。抽象表現の真の目的を考えると、それが存在するであろう空間を無視した前提での作品の出発点とする思考回路は、多分、イメージを引きずっていることを前提としているために、真の意味での抽象表現の目的である、表現の解放にはつながらない、と云える。(この問題の詳しい説明はこの項目では行わないが、)即ち、抽象表現としてのスクラプチャーの制作動機は、はじめに空間があり、その空間との関係において(その空間を空気をどう動かすか)成立するものであり、空間と作品との緊張関係を創ることのみが(この緊張関係の内容においてのみ、作者の意図、完成が否応無しに反映される。なぜならば、作者自身が感情を持っているからである。)抽象表現としてのスクラプチャーの存在意味であり、そのことによって、送り手も受けても自由に何かを感じ取ることができるのであり、このことを精神の解放というのである、と考えると、このような思考を進めていくと、作品と空間との問題は、作品を制作するための動機を呼び起こす大きな要素であり、最大の根拠であるのかもしれない、と言える。
その意味では、現在の日本の私たちが存在している現実の空間を考えると、抽象表現としてのスクラプチャーを存在させるための空間自身を見つけることは、物理的にも、精神的にも、大変困難なことのように思える。