造形教育を考える。を展開するにあたって、ここで新たな問題が生じた。造形、という私の概念はこのホームページで出来るだけ明らかにして来たつもりであるが、教育、という事についての共通した認識の概念が判らない、という事の問題である。この問題は、この教育という事の意味だけの問題ではなくて、何かに対しての自分自身の考えや意見等を発言しようとした時に感じる、私達が立っている共通した地平というものに対しての不完全性である。現在の様な専門性の多様化した社会では、その専門性を正当化するために必要な根拠としての価値観という事がそれぞれの専門領域で常識になっている。また、それぞれの専門性の中でもその専門性と交差したり影響し合ったりしていると考えられる範囲によって、また異なった価値観の前提を生む。例えば、具体的に2〜3の例を挙げると、アート、という言葉は具体的に何を表しているのか説明する事はかなり難しい。また、日本語でいう、芸術、という言葉の意味とアート、という言葉の意味とは同じではない様な気がする。また、ある社会学者のように、人間社会の変貌によって生まれた、その時代性による価値観の変化と、それぞれの時代においての、それぞれの立ち位置によっても全く異なった、芸術、アート、という概念を自身の中に構築している。この様に、同じ言葉を使って、一見、同じ地点に立って議論がかみ合っているように感じる、と考えている事が、実際は全く異なった地平に立って議論している事が良くある。人間社会を構成している根本的な価値観に関する事柄については、特にこの傾向が強い。この造形教育の前提になる、教育、という概念の問題も、根本的な、人間にとっての教育の意味という事の検証を抜きにしては、いくら思考を巡らしても意味がない事にもなりかねない。特に、1970年代の後半からは、教育について、研究機関や教育現場の声はあまり聞かれない。それに変って、民主主義社会を理由に、万人が教育に対しての、また、教育機関の学校に対しての意見を述べる権利がある、という風潮からか、近視眼的な、即ち、その時代の一部の都合の必要性から生まれる(言い換えると、その時代の大人世代の都合が優先して、)教育や教育機関に対しての声が大きくなったように感じる。しかし、この事は、本来の人間が生きている、と云う事から生まれた教育の意味や人間社会がたどって来た歴史の意味、等を結果として無視してしまっている事によって、人間社会の立ち位置が、地に足のついていない状態を作り出してしまっている。この事は、人間にとっての教育の必要性、という問題を本質的に忘れさせてしまっている可能性が高い、という事を物語っているのではないだろうか。(多分、知覚の世界で学習した事のほとんどは遺伝に頼る事が出来ず、一つ一つの個体が改めて学習しなけれはならない、という事実があるにもかかわらず、)

これらの現状を踏まえて、教育、という事の意味をもう一度整理してみたい。私は、教育という事を考える時に、はじめに頭に浮かぶ事は、J.A.L.シング著「狼に育てられた子」に書かれているカマラとアマラの養育日記である。この日記でわかる事は、人は先天的に人間社会に順応できる生き物ではない、という事である。人を、人間として生きる、という事を助ける事が教育である、という事である。これは、何も学校教育だけが教育である、という様な狭義的な意味での教育を指している訳ではないが、学校教育の位置付けも、この前提の上にたって考えなければならない事を意味している。また、教育という事は教育をする側とされる側の関係で、初めて成立する事が出来る。しかし、本質的には「自らが学ぶ」という意思は、生きている、という事から生まれる生命観から能動的に生まれるものでなければならない。この「自ら学ぶ」という事を考えると、知る、という事、憶える、という事、考える、という事から成っていることが判る。この「学ぶ」という事の要素のそれぞれの意味は、それぞれの要素が複雑に絡み合って学ぼうとする人の内部で組み合わさる事によって、初めて、「学ぶ」という事が成立する、と考えられる。この事を手助けする事が教育である。その意味では、現在の日本の社会で共通した認識としての「教育」という概念は、非常に希薄なものになっている、と云わざるを得ない。ここで明記した「学ぶ」という事の内要についての吟味が極めて不十分であり、曖昧である。特に、知る、という事と、憶える、という事の意味が曖昧である。学歴偏重社会においての受験教育の過熱と教育の産業化による教育の効率化が進んだために、知る、という事の先にある、知識、という事の意味が、憶えるという事の先にある、記憶、という事に置き換えられてしまっている事が現状である。この事は、知るという事の先にある、深く考える、という目的を希薄にしてしまい、いつの間にか、人が人間として自立するという事についての深い洞察力や、その先にあるであろう、人間社会の理想像を描くための想像力と創造力を失ってしまった、と云える。即ち、人類の危機、という言葉がいとも容易く聞かれる現在の人間社会では(ある意味で手遅れであるかも知れないが、)人間の存在の前提を性善説にたって人間の可能性を信じて、人類の危機を回避するためにも、もう一度、「学ぶ」という事を前提とした教育の再生をしなければならない。今まで、この文章の中で考えて来た事を熟考してみると、このホームページで述べて来た、「芸術の復権」における造形についての考え方の内容と、この、教育における、「学ぶ」という事の問題が極めて近いと云うか、同次元である事を示唆している、と思える。即ち、造形活動は、この、「学ぶ」という事そのものを行なっている事が浮かび上がってくる。今、ここで展開している思考は、現在の簡略化と省略化によって機能している社会、ではない社会(地に足がついた生き方をしている社会)では、人間が生物としての機能によって生きている事は当たり前の認識であり、その認識においては造形活動は「学ぶ」という事そのものである、という認識は、至極、当たり前のこと、と考えている。この価値観に立って、造形教育について、出来るだけ具体的(マニュアル化ではなくて)に考えて、展開して行きたい、と思う。

 

         芸術の復権

        (24)造形教育について考える。

            

    

  ③ 教育とは、「学ぶ」という事とは。