人間は、形から何かのイメージを自己の内側に創ったり、造ったり、作ったりする。この事を使って伝達することを視覚伝達(ヴィジュアル,コミュニケーション)と言う。抽象表現としてのスクラプチャーも同じからくりの中で機能し、存在する。抽象化されたスクラプチャーは、それ以前のスクラプチャーの多くが持っていた表現形式とは異にしているが、その理由は表現目的の違いに他ならない。作者においての作品を制作するという意味は、作者の外側に向かった表現、作者の内側に向かった表現を目的にしたものであるが、作者の外側に向かった表現は、常に明確な目的があって初めて成立する。その目的は、具体的な事柄を前提にしたイメージの強制や、一方的なイメージとしての解放の偶像化と、それによる伝達を目的としている。(この事は、グラフィックデザインにおいての最重要テーマであるが)一方、作者の内側に向かった表現の目的は、作品制作によって出会うことのできるであろう未知の世界の追求である。造形行為に属するすべてのものは、たとえ、その制作行為がイメージの表現を目的としたものでも、その表現を可能にしている造形要素とそれに命を与えるもの(材料、色彩、空間、これらの構成、道具、)との対話で成り立っている。そして、それによってもたらされるであろう経験知を前提とした、イメージできる宇宙観である。ここで獲得できる可能性が求めるものは、無限の時間的空間である。確かに、作者の外側へ向かった表現行為でも、その制作過程で、その作品をつかさどっているあらゆる要素や条件との関係から生まれる対話によって、それなりの世界観を獲得できるかもしれない。(私が知ってる限りの現在の抽象表現されたスクラプチャーのほとんどが何かの目的を持った外側への表現であり、そこからは、造形要素やそれらに命を与えるものとの直接的な対話はあまり感じることはできないし、それなりの世界観を、そこから獲得する意味の重要性を制作過程の中では念頭にない、と思える。)しかし、はじめから目的のある行為は始まりと終わりがある。その意味では、自分自身が生きている時間の中でのイメージの展開しか望めない。芸術の官能性の問題は、自分の生きている時間を乗り越えた創造性に訴えることを目指すことによってのみ、獲得できるように感じる。その意味で、抽象表現は重要であり、その重要性を認識すれば、形態とイメージの安易な結びつけは、その先の可能性を消し去るものである。